2012年11月24日土曜日

自分も人も褒めることで育てよう

 好きな人からメールが来ない日は

大事にされていないのかと気になり

たとえ一行でも書いてくれたらと思うのに

いざ一行「おはよう」くらいのメッセージが届いても

今度はもっと書いてくれたら良いのにと思うものだ。

人間というのはどこまでも

足りない方の、影を見る習性にできているらしい・・・

そう思ってふと気が付いたのは

毎日先生が子どもの様子をノートに書いてくれるのだけど

それに返信を書いていない自分の姿

今日はそうじの時間がんばっていましたとか

OOの勉強をがんばりました・・

とか・・・。

先生がそういう様子を教えてくれるのは当然みたいに思っていたけど

先生も家庭での様子が知りたいのかもしれないとふと思い

書かないでそのままいるのは失礼というか・・・

先生側のやる気も失せるのではないかという気がした。

双方向のやりとりにおいて

ホント1分くらいで終わることでも

あるか、全くないかでは意識が違うのだと思う。


リッツカールトンだったかで徹底していることは、従業員が

ペットボトルに口をつけて飲まないとことだと書いてあった

必ずコップに注ぐのだとか・・。

ほんのひと手間だけど、それがその人の人間性

その先の人への気配りにつながる。


自分が不快な思いをしたときに

同じように相手にも思わせている事柄が

別のところであるんだよ!と

鏡の法則的な現象で気がつかせてくれるのだと思う



こどもの村小学校では

先生は悪いことを報告したら親は子供を叱るだけで

なにも良いことはないからと、通信簿みたいなものもないし

学期末には良いことばかりの報告書が来る

確かにそれはいえている・・・。

子どもの村は何か問題があっても子供たちで話し合いで解決するから

いじめた方も、いじめられた方も、そんなにあとくされも残らない


この時代、学校では子どもが子どもに教えたり

注意したりさせることが多くて

お互いに縄跳びをとんでアドバイスをしあいましょうなんて課題があって

息子が怒って帰ってきたことがあるけど

それをするより、お互い良いところを褒めあいましょう

の方がよほど子どもが伸びると思う。

先生が言うならまだしも、子供に言わせる先生も先生だし

言われた子どもが怒ったときに

怒った子どもだけを叱る先生も先生だ。

暴力や暴言にまで至るには、

それなりに我慢して限界に達するに至る起因があるものなのに・・。


子どもが子どもを注意するみたいなのを

良しとする風習こそ見直すべきだと思う。

アメリカで演劇のスクールに通っていた時も

パフォーマンスの後、先生は必ず「どう思った?」と

俳優にまず聞いていた。

演出とは引き出すという意味・・・。

誰かがこうだ、ああだと教えて伸びるものではないんじゃないかと

最近特に感じる・・・

できていない時に文句を言ったり

叱ったり注意したりするのは能がない

「できているときに褒める」

この時代、どんな人のニーズがあるかといったら

”褒めることができる人”

結構 パートナーシップでも

褒めましょうというと

OOしてくれてありがとう のように感謝で終わってしまって

褒めるには至らない。

電話がないとかメールがないとか

たった一行だけ?もっと書いてではなく・・・

不満があったら、むしろ相手を褒めるように

光の部分を探す

今日はたくさんメッセージをもらえてうれしかった・・。

あんたの励ましはとても力になるとか

そうやって

相手も自分も育てていくのはどうだろう?



















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